我慢の歴史①
我慢、我慢、我慢。。。
これ、実は私の人生でかなり蓄積してきたことでした
★相手が言ったちょっとした一言にイラっ
。。。でも、ここは我慢しよう
私が我慢すれば何事もなく平和に終わる。。。
★なんで、この人こんなこともわからないの?
面倒くさいなー
もう面倒だから、ちょっと大変になるけど私がやろう!
そしたら解決するし!
(本当はやりたくないけど我慢してやる。。。)
★どうせ伝わらない
伝わらないことで悲しい思いをするのなら
言わない方がいい。。。(我慢)
家族の中にいても我慢
会社の中でも我慢
友達といても我慢
パートナーといても我慢
あまりにも当たり前化されていて
我慢しているって認識はないかもしれない
そのくらい日常の中で我慢って当たり前になっている
でも我慢って私だけの問題なの?
今回は、その我慢についてもう少し意識の幅を広げてみようと思う
そうすると・・・
実は人間の歴史そのものが我慢の歴史なんだってことがわかる
人間が我慢に至る原因
それは、私の見ている世界は1分1秒たりとも
誰かに共有することはできないし
どんなに大切な人であっても、その人の世界を
100%知ること、理解すること、感じること
それは無理!ということ
だって、例えば目の前に海が広がっていたとして
その海に対して、Aさん・Bさんともに「美しい」と
同じ単語を使って表現したとしても
その美しいという言葉の背景は
その人の経験・体験に基づくものであって
それを1㎜もズレることなく共有したり
理解することはできない
そう思いませんか?
また見るという行為に関しても
同じ対象を見ていても、角度の違いや、遠近感、視力の違いなど
全く同じものを見るということは不可能なんです
だから人間はこの目で見ている世界について
全く同じものを観るということは1分1秒たりともできないのです
でも同じものを見ているし、同じことを感じているに違いない
そんな風に思い込んで、ちぐはぐなコミュニケーションを取ったり
伝わらない、わかってもらえないことの絶望を感じたりするのです
そして、1秒たりとも同じ世界を観ることができないという
大前提があった上で
人間のバラバラの世界をどう統制するのか、結集させるのか
その問題の解決のための歴史なんだ
と、みることもできます
みんながみんなバラバラな世界をみて、
それぞれがそれぞれの主張をすれば秩序なんてつくられません
だから、王様の見ている世界を基準に秩序をつくり
人を結集させ、多様なものを生産してきました
王様の基準が絶対なので、王様が観ている世界以外のものは
残念ながら必要がありません
よって基準に沿わないものは殺され、罰されます
国レベルになれば、どちらの王様の基準が正しいのか
(正しいのか=より多くの人を支配できるのか)
そこで戦争や紛争、争いが繰り返されるのです
ここでのポイントは、
王様の基準に合わせるということは
王様以外の民衆は、自分の基準を全てないものとして生きるということ
欲求も欲望も全てないものとして王様に従う生き方をしないと
生きることさえも許されないんだということ
ないものとするくらいの強烈に抑える力が働いているので
我慢しているという自覚がないくらいのレベルかもしれません
強烈な我慢の歴史が既に始まっているのです
ちょっと長くなりそうなので、今日はここまで^^
次回に続きを書きます!